自己に向き合う怖さ ー 離婚
ゆっくり時間をおきながら、
見つめるのは結局のところ「自分」だったりする。
お互いをお互いに映し出し、
教え合うことはきっと今までにもいっぱいあったんだろうけど、自分に向き合う潔さを持てないまま、何かしら相手のせいにし合ってみたり、より多くの理想を相手に求めてみたり。
紆余曲折しながらも真摯に向き合った先には、
同じくらいの感謝の気持ちと、依存と、孤独への恐怖と、何より幼少期の自己に対する同情心とか、精神的に本当の意味で大人になる(自己を受け入れ自己を愛す)ことだったりがあって、それを一緒に向き合えるなら、そんなありがたいことはないよなぁと思う。
親と叶わなかった愛の育みを、
大人になって無意識にパートナーに託し、自立できない自己は行き場を失う。相手をコントロールしたい欲求に潜む、自分は愛されていないかもしれないという恐れ。
そんな恐怖を隠すかのように、社会的な足跡をに固執して、満足した気になって、埋まらないものが何が分からなくなる。相手はそのまま自分の写し鏡だってことも分からないような、自分の感情を無視できるほどの余裕はもう無いだろうなって思う。
情けや惰性だけで一緒にいられるほど
お互い嘘がつけない性格で、
これが早い時期で良かったんだって、
ちゃんと愛を持って離れることを前向きに捉えられるところまでは、ちゃんと時間をかけていけたらいいよねと、そんな話をした。
イギリスはカウンセラーにかかるのは日常で、私のパートナーもまた半年前くらいから毎週カウンセラーと会っている。夫婦のカップルカウンセラーにカウンセリングを依頼してみようと考えている。
ストレスだけを抱えて離婚をしたくない。
離れる時はちゃんと彼を応援する気持ちと、自分を応援する気持ちが同じくらいでいたい。あるようでないような社会を見れば、正直になることが怖くなることは何度も何度も襲ってくるかもしれない。だけど、ちゃんと自分の気持ちにだけは嘘をついて生きていないって、それだけで十分に自分を誇れる気がするんだなぁ。そしてその自分しか自分の過去も未来も作らないわけだから、今の感情に蓋をすることでは、私はきっと自分の過去にも未来にも満足しない。
自己に向き合うことは恐怖か?
もしくは、喜びか?
気付いた以上は無視できない。
そろそろ準備ができてきたのかなぁ、、
傍観は続く…
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