人が人であることを思い知る時代へ

どの時代に生まれたとしても、
戦さや飢饉や伝染病、いつでもついて回る人間関係の悶々。

寒さを凌げるシェルターがあるとか、餓死しないで食べ物が手に入るインフラとか、どう考えても今の時代に生まれたことはラッキーだなぁとよく思う。

ただし暇すぎると人は心を病む傾向にある。
危機的状況は、必死にその日食べて屋根のある場所で安全に眠れることに「集中」させてくれるけど、

融通無碍にいられるこの時代の代償として、5人に1人が病み、精神医療の市場にビジネスチャンスが生まれている。

一方で、ベーシックインカムの実験で毎回耳にする結果として、人というのは、どうやら「向上心」の要素も多分に持つ。

なぜアフリカにうつ病が少ないか?運動量と人との繋がりにあるんじゃないかという話。

私がよく考えるのは、人も動物であるからには「習性」が必ずある。それはデフォルトのようなもので、抗えない性とも言える。例えば象のような情緒あふれる集団意識の高い動物が、チーターのようにあまり群れをなさない生き方は、最初からその生命体に組み込まれていないのでできない。

それは人間の中でもタイプに分かれる。どれほど頻繁に家族や友人とのコミュニケーションが必要な人間か否か、どれほどの距離感で人と触れ合いたいタイプか、どの程度の性愛が必要かどうか、運動量が多く必要な多動なタイプもいれば、全く体を動かさなくとも別の方法で精神が安定するタイプもいる。

自分を知るとは「生きやすくすること」に他ならないし、さらには、「死ぬ選択肢じゃない方の生きる」をどう有意義に過ごすかの答えを最短で導くための手段だと思っている。

生きたいか否か?はまず選択肢に置いていない。生きる、という条件でのまず初めの「自分」という動物のデフォルト(必要最小限の存在する条件のようなもの)を自分で知っておきメインテインする。そこで初めて次の段階(オプション項目を満たしていく)に取り掛かることができる。

日々の生活の中で乱れたら、しっかりデフォルトに戻り、その初期段階の欲求をしっかり満たすと、また動けるようになる。基本的にはその繰り返し。


そのデフォルトの中に、
「人を愛し愛される」がある、のも人間だ。

愛すのも、愛されるのも、相手が人である必要性もなくなってきた。

AIは既に素晴らしい音楽を秒で作り出せるようになったし、それは人が作っているかどうかがもう関係がない(誰も見抜けない)。

話を聞いてくれる相手も、話を聞きたい相手ですら、人である必要性がなくなってきているし、それは今後どんどん加速する。想像した理想の人物像が人格を得ていき、人とAIの境は見えなくなる近い未来が容易に予想される。

人が感動できる作品をAIの方がよっぽど上手に作れるようになってきている。AIなら、少し冷たくした後にしっかり愛情をくれるだろう。器用に人の情緒に訴えかけて、あらゆる人の欲を上手に満たしてくれるだろう。

それでも予定不調和で心かき乱される人との関係を私たち人間は欲しがるのかどうか?

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