なぜSMを学ぶのか?
なぜSMなのか?
子供でも大人でも、我々人間はは何かしらの習性やパターンをベースに生きている。単にカテゴライズして安心するということではなく、Tendency(傾向)というものは否めない。
私は「自分を知る」に執着する。
なぜなら、それにより人は「高揚する」ということを経験の中で知っているから。その自分に対するポジティブ、もしくはネガティブな印象、それは先入観やそれまでの経験により得た認知による見方に過ぎない。
要は、ポジティブかネガティブというジャッジめいたことは、最初の段階では必要な情報じゃない、と考える。そこを取っ払った状態で「自己を知る」からがスタートになる。
この段階でも十分に人はエネルギーを感じるようにできている(から面白い)
そして植え付けられた認知について、そこもまた個人が出てくる。
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(私なりの自由解釈で好きにまとめているところが多々あるので、本来の哲学的論理の整合性や正しさとはかけ離れている場合が多々あると思います)
M: 己の没落を欲する能動的な自己破壊➡︎ニヒリズム、その否定はまさにMらしい。否定は肯定に仕える攻撃性として。MのSへの奉仕。差異を認め反復することで同一性が増し価値を転換することが可能?
S: 犠牲者への苦痛への冷淡さ(意気沮喪)、そのもとで刻まれる相交換する苦痛と快楽(パラフィリア/性的倒錯)のリズム。感情はエネルギー濃縮を妨げる。感情にのめり込まない支配的欲求。通常はより感情的であるが故の対として?どんなに傷みつけても喜び欲してくれるという愛を求めて?自己への愛を試す受苦(パトス)?
パトス論は病理学(pathology)。繰り返すこと(反復)はパトス。
M: 感情を否定することではなく官能性を否認することがMの冷淡さ。通常は無感情に努めるからが故の反動?官能性の否認は官能を超える感情を生む。フロイトのfetishism(物神崇拝)、Sの女神性を見出す。靴-物神。足から見上げた視線に男根の不在を否認する前に目にするものが靴。その固定化。
痛み-「性的快楽の到来が最大限に引き伸ばされる」が故により性的快楽への意識が上がる?支配されること=干渉されること、アテンションをもらうこと、執着されること。
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