そんな自分でもどんな我が子でも愛せるか?

仏教思想ではないですが、
目に見えるものばかりを見比べたとて、「幸せの境地」にたどり着けないことくらい、人生の半分くらいを生きた大人になら誰にでも分かることかもしれません。

なんでうちの子は普通じゃないの?
なんで他の子みたいに学校に行けないの?
なんでこんなに神経質なの?
なんでこんなにイライラしてるの?
なんでこんな変なことをしてしまうの?
なんで親の私に辛く当たるの?

なんでうちの親は、、?
なんでうちの夫は、、?
なんで政府は、、?
なんで学校は、、?
なんで先生は、、?

なんで私は、、?



幸せじゃない理由を、
なんでなんで?と並べたら並べただけ、

また一つ、
「満足な人生」から「自ら」遠のく。

生きてる理由なんてものは、

そもそも最初から存在しない。


目の前の現実こそ全てで、
その毎日の中で、

どう

幸せになるか?


「どんなスタンスでこの現状を楽しめるか?」を、
探るだけ。

それには、「自分を知る」必要があり、
共に生きている「相手を知る」必要があるということ。

「知る」即ち、

それは「愛すこと」


もしも、
まだもがいているなら、
まだまだもっと「知る」余地があるかもしれない、
まだまだもっと「愛す」余地があるかもしれない。

周りが見えないくらいに集中して、
ただそこだけを見ていれば、
愛情は勝手に湧いてくる。

だってそれは「大好きな自分」であり、
そんな自分から生まれた
「大好きな我が子」だから。


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