依存•不登校も生きる術
「依存」とか「不登校」とか、
そういったことのおかげで、
私たちはやっていけている。
ということもあるのだと思う。
「依存のおかげ」
「不登校のおかげ」
で、その人が成り立っている、
と言えるのではないかと。
何かにすがったり、頼ったりしながら、
そんな一見すると無意味なようなことばかりに人はもたれ掛かりながら、
それでも生きていくって、
いいんじゃないの?と、思うわけです。
「依存から抜けなきゃいけないのか?」
「不登校から抜けなきゃいけないのか?」
「マジョリティーに戻ることが本当に目指したいことなのか?」
人はそんなに強くないから人間なわけで。
多かれ少なかれ、苦悩と共に生きていく私たち。
「熱中するものを持って欲しい」
「好きなことを探したい!」
結局これらも生きる術であって、
「熱狂」というのか?
「依存」というのか?
その境目は、なんなんだ?
標準の範囲とか言っちゃう?
そもそも「標準」って、誰の標準?
「社会」が決めた標準?
身分制度の無くなった江戸時代から、
競争社会で優劣をつけ始めた。
点数が高い奴、
学位が高い奴、
国民にはランキングを競わせながら
公教育で工場で働けるような人間を生産していく。
学校に行かせろ。
小さいうちから洗脳せねば、
号令に言うことを聞く人間には育てられない。
働き蟻をより多く作り出せ。
日本の経済発展のために。
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悩みもがきジタバタする。
本能が叫ぶ、
「命全体で喜びたい!」
「強くいること」は、
人間が本来持つ特性ではなく、
私たち人間の持つ特徴というのは、
「寄り添うこと」ではないかと思う。
現代において、寄り添う相手は人でなくてもよく
芸術でも文学でも、
その人の心にポッと火を灯すものであればなんでも。でも必ずそのずっと先には、
自分を見るし、そんな自分を見ている誰かがいるはず。
依存や不登校も含めて、
今のその人なんでしょう。
等身大のそのままの君なんでしょう。
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