生きる意味
(注: 今回の日記の内容には、読む方によっては多少過激な体験談やネガティブに取られる発言もあるかもしれませんので、苦手な方はサクッとスルーして下さい)
私の経験では初めて「生と死」を見つめたのが、小学生〜中学生の頃。
窮屈だったり不自由だったりを感じていた流れで、漠然と生きる意味を自問自答していた。
その根底には家庭環境があっただろうと思う。母親と離れて暮らさなきゃいけなかったり、目の前で父親が母親に暴力を振るう光景を何度も見る羽目になったり、そのほかの見たくない父親の母親にしたことなど、父親に怯えて夜を過ごさないといけない日々や、母親の恐らく当時私たち子供には内緒で付き合っていたであろう人とのとある現場に居合わせてしまったり、不可解な幻覚のようなものが小学生からあったり、(20代まで続いた)、イジメも普通にあった、不登校も普通にしていた。
信じられるものが目の前にないと、その日その日に集中できない。肉体はあれど心が俯瞰の状態で起こっている出来事を理解しようとする。
視点の向く先は自ずと理由探し。
「なんで生きているのか?」
「人生の理由とは?」
「生と死とは?」
こんなものに最初から意味なんてないと思っていた。だけど、なんで生きることを考えたかというと、とっても簡単で、死ぬ選択肢以外にあるのが生きること、だっただけ。
どうせ死ねないなら生きるしかない、っていう理屈を自分で作った。じゃあどうせ生きるなら楽しもうと思って、半ばヤケクソで楽しんでやろうと思って今に至る。
だから最初から何も期待していないし、誰にも期待していない自分がいる。良くも悪くも、どうにでもなれ、どうにかなる、どうかなっても最終的にはどうにかなる、みたいな。
全部は暇潰しなんだけど、そう言うと傷付く人もいるから大きな声では言わないが、私にとっては全部が時間を潰すこと以外にない。どうせいつか終わるなら、好きなことを言ってやって楽しんだ方が勝ち。
それはあまりにもフェアじゃない生い立ちに対する私なりの復讐で、自分で選んだはずのない環境が憎かったので、全部自分の思うようにしたいと思うようになった。常識や感情ですら、受け身や既存のものでは納得がいかないし、いつでも自分がコントロールしているし、自分が選んでいるかどうかを大人になった今でも重要視する。不利な環境下にあったとしても、それを分かった上で自分でチョイスしていることを自覚することを大事に思う。
どんな理不尽な状況が身に降りかかったとしても、最終的にどう感じるか?の選択肢は、必ず自分の手の中にあることを忘れたくない。
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という感じで、ある意味何でもこいという、冷めているというのか、期待していないというのか、、
動じないわけじゃないし傷付きはすれど、まあそんなこともあるよね、というスタンスかな、笑
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