個性に歩み寄った学びを

レッスンに15分遅れてログイン、
連絡もなく、彼にしては珍しいなと様子を伺っていた。帰ってくる途中で寝ちゃって、、と彼。顔が冴えないのはそのせいか?

英語学習の時間を過ごし、社会学の宮台真司さんの著書の中の「尊厳と自由」について読み、語り合った。

私が感じるところ、一年前の彼とは大きく違う。
「学び」を得る準備ができているような、、
それに対して中学一年生のころはまだ実態が掴めていないような様子があった。食わず嫌いのような。

だからこそ今はあえて英文法を説明している。ただし、彼はよりリアルなことで吸収できる性格なので、無駄に新しい単語や単語のスペルを覚えさせたりという導入の仕方は私はしない。

言葉も表現も使ってこそ初めて彼はその実態を感じて、自分のものにしようとする。似非らごとが嫌いというか、いつだって本質に基づいたリアリティを感じていないと心が躍らないんだな。




子供達と向き合っていて面白いなと感じるのは、彼らは何かふとした瞬間に、彼らの中にある“想い”のようなものがサラサラと溢れ出ることがよくあって、、

この彼の場合はあえてレッスンの半分は「対話」の時間をもうけてはいるけれど、そうじゃない生徒でも、その日やその前後に、誰かと話したことや起こった出来事に対し、自分の気持ちを再確認するかのように言葉を発してくれる。

さらに面白いのが、こちらからあえて聞いてもないのに「道徳の時間」の話を結構な割合の子たちがしてくれたりする。今の日本の道徳の学びの中で、どこまで個人の感受性が重視されているかは、学校や教師によって差はあるだろうけど、子供達なりに感じることが多いんだろうなぁ、ということが分かる。

続く、、

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