「特異性」と「個性」は違うらしい (ラカン精神分析)
「疾風怒濤 精神分析入門 ジャックラカン的生き方のススメ 片岡一竹著」
前に読んでいた精神分析の本の中で知った、
「自我」のことが書かれてある
フロイトのイド/エス、自我、超自我
自己意識が自我
ってことは、ハイデガーでいうところの「非本来性」に当たるのかな
社会適応とかもこの自我
イド(快感原則、リビドーを含んでいる)や超自我(躾によってできた領域なので、厳しい躾であった場合は厳しい超自我となったり、反面教師の面もある)を調整する役割がある
そこで、
「個性」というのは「自我」であって、要は他者評価があって成り立つもの
社会という枠の中での「個性」ということ
他者や社会に依存しているとも言えると
一方で「特異性」というのは、主体的である
他者に見せられないほど恥ずかしいものであったり、誰かに知られたら許されないかもしれないような、他者(一般性)のお墨付きがないものだから、人は悩んでしまう、と
それを分析して活路を見出す、ということなんだと
特異性を受け入れる覚悟が在れば、精神分析(分析者の並走)を通して、もしかしたら無意識の中に隠れていた自分の特異性を自ら導き出せるのかも!?
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精神分析者が何かを施すのではなく、あくまでもただそばにいて、自分で気付いていくことなんだなぁ
治療でも支援でもない立ち位置、私としては普段の活動スタイルとしてかなりしっくりきます。特に大人の方を掘る時(「掘る」というのは、その人らしさを一緒に見つけるような作業のことです)、似たような感じかなぁと。
ただもう少し寄り添っちゃってる部分はあるなぁ。だけど最終的にはご本人が勝手に「あぁ!」というような気づきに至られています。
人は「自分の本心に気付くこと」が要だと思っていて、、それさえ分かれば勝手にイキイキとしてくるもので。だけど世の中の余計な価値観が邪魔をして、本当にやりたいことや欲していることが見えなくなってる人が多いなぁというのは、人と向き合うときによく感じることです。
私自身も信頼できる人に話を聞いてもらって、自分がなにをどうしたいのか?に気付かされることは多々あるので、必ずしも精神分析の専門家が相手でないとダメということでもないかなぁとは思いますが、プロの目線はまた違うものなんでしょうね。
ただラカン派でいくとなると、公的に認定された資格がないので、ラカンを学んで自分でラカン派の精神分析家だよって言うこともアリなようですね、笑
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