不登校児の可能性の大きさを証明したい
私は日々、英語を学びたい個性あふれる日本の子供たち、そして不登校児とそのママたちと向き合いながらロンドンで生活をしています。
6歳の息子の受験も私のここ数年のライフプランの一つでありましたが、それも無事に終わりました。
いよいよ本腰を入れて、自分のやりたい方向性へ身を委ねたい気持ちがいっぱいです。それはまるで、まだ寒い3月にも関わらず、たまに差す太陽の光と春の香りが待ちきれないままに、ワクワクと花を咲かしている桜のようでもあります。
5ヶ月くらい向き合ってきた13歳の不登校の生徒が、4月の中学2年生から学校に通ってみるという計画を立てています。ゲーム活動は継続する様子ですし、彼にとって最高の居場所であり、多くの学びの場所でもあります。チーム内外の人たちとに触れ合いの中で、彼の勘の良さや仲間想い、愛され度合い100%の可愛い性格は、水を得た魚のようにのびのびと笑顔と自信に満ち溢れています。
今日も彼とは英語の勉強だけにとどまらない、LGBT、ヴィクトリア時代、モナキー、フェミニズム、オリンピックの森氏の発言、日本の天皇陛下、日本とアメリカの関係性と歴史、日本人のアメリカへの憧れの裏側にあるメディアやさらにその裏側、不登校児のあり方、ゲームへの偏見、収入源や仕事の仕方、などなど、彼とはあらゆる世の中の話を通して、彼の想いや個性を探ります。
こういう日頃抱えている、社会への訴えなど自分の想いを受け止める存在でありたいですし、どんな意識や考えがあるのかにとても興味があります。学校の先生でももしかしたら親ともここまで話し合うことはないかもしれません。それは身内ではないけれど、身内のような近い存在であり、だけど社会に半歩出たところにいる理解者。レッスンを終えたあとの彼は、とてもスッキリしているのだと親御さんが教えてくれます。
私はいつも、彼にとことん質問をします。
何でだと思う?
自分はどう思う?
私は自分が立てたシナリオ「不登校の子供たちの可能性の偉大さ、そして彼らが日本を変える逸材となる」を証明したいと常々考えてやってきましたし、その意思は変わりません。
公教育に違和感を覚え不登校をすることで自分を主張している彼らが活躍できる場所がある。もしくは、彼らの素晴らしい個性に気づくチャンスさえ与えれば、学校という社会の存在は思い悩むものではなくなる(自分らしささえ見失わなければ、どこにいても問題がない)。
不登校児をいかに学校に戻そうとすることばかりが注目されますが、その、「行くか、行かない」かだけの2択しかない話ではない。
彼ら、個人の人権の主張のようなものだと感じています。それは大人も同じはなずです。私たちは皆個性がある。個性は死んで初めて尊重されるものではない。
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