鏡がなくても自分を見る方法
久々の日記になります。
最近は贅沢にも、一人の時間が持てていて、、
言葉にできないほどの喜びと穏やかさを感じています。
最後にこんな物理的にも精神的にも解放的な時間が持てたのはいつだろう、、
というほど、目的の為に、自ら捨ててきたものもありました。
もちろん私は全部自分で決めてきた。
学校に行かないことも、日本を離れることも、
何を取捨選択するかを、生傷を負ってでも自分で決めてきたから、後悔などは考えたことすらないほどです。
長い人生の中で、時には誰かのために自分を偽ってみることも面白いだろう。ちゃんと自分に戻れるならば、それはその後の自分にとって大きな経験になる。
毎分アップデートされる「世界幸せ度ランキング」の10位内にはいつも入っていたいという欲はありますが、笑
世の中にはそんな裏テーマとは真逆の順位に踊らされている人も多くいるのかもしれない(いないかもしれない)
分かりやすく見えるものを多く持つ人が、必ずしも幸福度ランキング上位とは限らない。むしろそこから遠く離れたところにいるかもしれない(いないかもしれない)
自分をワクワクさせてくれることは自分にしかわからないですからね。
人は本能的に情報が少ない相手を恐れます。
敵か味方か分からない、と。
その感覚は戦う必要が無くなった現代の私たちにも残っていて、、
そのせいで社会を怖がったりもするかもしれない。
だからこそ自分の情報を相手へ示せばいい。
どんどん開示すること(そんな自分を好きというかもしれない人たちへのヒントとして) 非常に合理的。
皮肉にも人間は集団で生き幸せを感じる動物で、
籠るにしても、誰かの存在をどこかしらで感じることは自分にとっても必要で、あなたの存在も同じように誰かにとっては大事なわけです。(私はよく、いきなりこの瞬間に、この世の中の人間が自分一人になったと想像してみる。それは果たしてワクワクすることだろうか?)
社会はよく見ると、多くの個の集まりに過ぎなく、大きく見れば社会や組織であっても、ただの個が同じ場所に存在しているだけだったりします。みんな各々自分の好きなことを、ただ同じ場所でやっているだけ。それはもしかしたら共通の趣味があるからとか、嗜好が似てるねってだけの理由だったり、そんな似たところを持った人を近くで感じていたいだけだったり、やっぱりどんな時も相手がいて初めて自分が見えるのがこの世界でしょう。鏡のように自分を写す対象がないのに自分の姿は自分では見えないのと同じですね。
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9月の頭までレッスンのお休みを頂きました。
子供たちもママも私もみんな、何もない時間に夢中になって、また9月にフレッシュな気持ちで再会できれば、そんなワクワクすることはないです^ ^
Honey xx
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