「共同幻想論」から
先人が残した言葉からいろんな共通点が見えてきたりするけど、、
吉本隆明氏の「共同幻想論」でも、
ハイデガーの言う世人とか非本来性とか、
坂口安吾の「堕落論」も同じように、
(カントの「純粋理性批判」は対象が私の興味と違ったので退屈してしまった、、
社会 vs 自己
自己 vs 社会
みたいなところで人は何か疑問を持つ生き物なんだなぁっていう、、。
そしてここに私のお気にのフッサールの「懐疑論」とか持ってくると、もう全てはよくわかんないところにある、みたいな、、結局自分というフィルターの主観を抜け出さないわけだから、全ては自己の中で起こっている解釈や世界観なわけだけど、
昨日書いた記事のように、
小さい子供でも何かを自分で決めることを、
10歳ちょいでもやっていって、
それを何度も何度も繰り返しながら、
自分にしっくりくるものを整えるのが人生だろうけど、
ワーキングメモリーが機能しなくなる理由の一つに、不要な情報が残っているからというのが科学的に証明されているとか?昨日ゼミで講師がおっしゃってた、、
そんな風に、生きていれば余計か余計じゃないか、自分のプラスにもマイナスにもなるかもならないかも分からないような価値観も一緒にごったに自分を通り過ぎるなかで、残っていったりしてるんだな。
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